「朝鮮学校で教える私と学ぶ生徒の表現」
崔 栄梨(美術家、朝鮮学校美術教師)

Gate 10 Korea – Fukuoka

2020.01.18 @福岡市美術館1Fレクチャールーム

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1.

こんにちは。チェ・ヨンリです。福岡在住の在日朝鮮人3世です。福岡で生まれ、幼稚園から高校まで県内の朝鮮学校に通いました。その後、東京小平にある朝鮮大学校で美術を学び、卒業後、教員として朝鮮学校に勤務していま す。現在は、福岡県下3校の朝鮮学校で美術を教えながら、自身の絵画作品制作にも取り組んでいます。

少し補足したいと思います。まず、在日朝鮮人と一言で言いましても色々な背景がありまして、私の場合はまだ朝鮮半島が二つに別れる前に祖父母が日本 に渡ってきて、父母、私は日本で生まれ育っています。3世代目なので三世で す。祖父母の生まれ故郷は現在の韓国にある慶尚道(キョンサンド)というところです。なので私は、日本で生まれ育ちながら朝鮮籍を持っていて、故郷は 韓国の地にあるという少し複雑なアイデンティティを持っています。

そういう自分のルーツやアイデンティティは、朝鮮学校で学びました。私は幼稚園から大学まで日本にある朝鮮学校で教育を受けました。朝鮮学校は日本 全国いろいろな場所にありまして、現在は全部で65校あります。幼稚園から大学まで含めてです。学校によって様々ですが、だいたい60年くらいの歴史を持っています。私が勤めている福岡朝鮮初級学校も、今年で60周年を迎えます。 福岡には幼稚園3校、小学校2校、中高が1校あります。それぞれ小倉、折尾、福岡は和白にあります。私はそこで学んだ後、美術の教師になりました。

私は朝鮮学校で小学と中学の授業に入っていて、美術部の指導もしています。美術部は中学生と高校生なので、小学1年生の6歳から高校3年生の18歳まで、幅広く関わることができています。子ども達の表現を毎日のように見る というとても贅沢な立場にいます。今日は、それがどういう表現なのかご紹介したいです。また、私が美術制作をするものとして、また、教育者として、朝 鮮人として、日本で生きるものとして、子ども達の美術をどう見ているのかを お話ししたいと思います。

ここで一つ心に留めておいて頂きたいのは、私がいう在日というのは朝鮮学校に通って、もしくは朝鮮学校に携わっている在日という範囲です。朝鮮学校というテリトリーの外にいる在日の方もたくさんおられます。むしろそちらの 方が数は多いです。その方々は私とは違う方法でご自身のアイデンティティを 培って日本で生活しておられます。私が勉強不足のため、その辺のことはよく知らないので、今日私がお話しする在日というのは全て〈朝鮮学校を卒業した私から見た在日〉という風に置き換えていただければと思います。

2.

生徒の表現を紹介する前に、まず、私の表現についてお話ししたいと思います。とはいっても、本格的に取り組めてはいない状況なのですが、去年は二人のアーティストの方とコラボレートできて、それをきっかけに考えと自分の作品も変化しているところなので、その辺をお話しします。

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牧園憲二《To settle to the bottom of something and stagnate》2019

まずは、去年、アーティストの牧園憲二さんとコラボレートさせていただきました。大清湖(テチョンホ)という韓国の湖がありましてそこの大清湖(テ チョンホ)美術館という場所での展示で、映像と、霧を発生させる装置と、写 真を転写したパネルで構成されています。作品について私が語るのははばかられるので、私が携わることになった経緯とこの作品を経ての考えをお話しします。最初は韓国語への翻訳を頼まれました。その時に、詩を翻訳することの危うさとか、私たちの言葉は韓国語と同じだけど違うとか、色々話をしました。最終的にそういう自分自身の言葉について文章を書いてもらえないかと言っていただいて、文章を書いてそれを朗読して、大清湖(テチョンホ)の美しい映像にのせていただきました。

この文章を書くのはすごく難しかったです。私たちは自分の言葉をウリマルと呼んでいます。<私たちの言葉>という意味です。そのウリマルを私は恥じていました。でも、それを肯定的に捉えられるんじゃないかと言っていただいて、思い込みを消してウリマルを見つめ直しました。そして、ウリマルが持つ間違いと呼ばれる部分は、私たちしか持ち得ない感覚につながるのではないかと思うようになりました。韓国では通じなくても私たちの間では通じていて、微妙なニュアンスもある。その定義できない曖昧さは私たちの大事な感覚なのではないか。このコラボレートを経て、ウリマルをとても愛おしく思うようになりました。

「煙のウリマルはケグリ」と言った朝鮮学校の子どもがいました。 この作品に登場する朝鮮学校でのエピソードです。私がウリマルをいいものとして捉え直している時、ふと、図工の授業中に小学生が、「煙のウリマルはな に?」と聞きました。それに答えて、別の子が「煙のウリマルはケグリ(蛙) だよ」と冗談を言いました。煙のウリマルは、本当は「ヨンギ」なのですが、ケムリという日本語と、ケグリという朝鮮語が偶然韻を踏んでいて、ダジャレのつもりでふざけて言った言葉です。私はそれに少し感動を覚えて、これも在日の子ならではの発想だし、日本語と朝鮮語が入り混じりながら発展してきた ウリマルの特性によるものかなと思いました。

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キャンディ・バード《Good Night, and Good Morning》2019
https://faam.city.fukuoka.lg.jp/exhibition/9130/

次はキャンディ・バードとのコラボレートです。福岡アジア美術館の招聘作家としてレジデンスをしていて、コラボレーターを公募していました。キャンディバードは<アザーズ>というプロジェクトを展開中で、私が5人目となりま す。アザーズプロジェクトとは、その地域に住んでいながら他人のように暮らしている、もしくはそれを強いられている人の物語を彼が壁画にするというものです。

まさに私たちのことだと思い、自分の在日という立場を文にして応募したところ、選んでいただきました。最終的には3つの文を書いて朗読したのと、嬉しいことに一緒に大きな絵を描かせてもらうことができました。これを制作するに当たって私が以前住んでいた、在日の方がたくさん住んでいる金平団地という場所のあたりを一緒に散策し、昔のことをたくさん思い出してお話ししました。その場所の記憶について私はあまりいいことがなかったと思っていて封印していましたが、それをものすごくナチュラルに掘り起こしてくれました。不思議と、楽しい思い出がたくさん蘇ってきました。もしかしたら、初めて金平団地がなくなったことを悲しんだかもしれません。そして自分自身があの時 の小さな私を思い出の中に閉じ込めてしまっていたのかもしれないと気がつきました。それを出してもらったような気がしています。

この二つのコラボレートを通して、私は自分がすでに持っているものに対する大切さ、愛おしさを感じることができるようになりました。二人のアーティストと、福岡アジア美術館の方々に何度でもお礼を申し上げたいです。

3.

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左より《Juliet》2019 キャンバスにアクリル、《April》 2019 パネルにアセトン転写、《Loop》 2019 パネルにアセトン転写

私も教師をしながら細々と表現活動をしています。絵画です。ポートレイト作品と、転写の技術を利用した作品です。何年間もかけて十数作品程度ですけれど。ポートレイトはこういうものです。最初は単純に動機としては美術部を指導することになったときに、先輩の先生からもしも君が作家を育てたいので あれば自分自身が作家にならなければ教える資格はないと言われました。その言葉が印象に残っていました。この作品を描きながらすごく思うことは、他人を描いているが自分を描いているということです。人を描く、自分を描く、存在を描くとなった時に自分が在日であるということから外れて考えることはどうしてもできなくて、その辺の自分の存在価値というものを考えながら描いていることに気がつきました。もちろん在日としてだけではない自分自身の存在価値も含まれていますが。日本社会の中で生活していると、私は完全に日本人として認識されています。私が朝鮮人だと知って態度を翻して差別的な目を向けられるのもすごく辛いことでもありますが、何気にそれよりもっと私という 存在は知られていない、認識されていない、透明人間なんだと思うこともすごく引っかかる部分ではあります。そういう自分の透明性、あっちでもこっちで もない境界性を強く感じてその辺を作品に落とし込んでいる最中です。

では、この日本の地で私は在日としてどう生きていきたいのかと考えた時、やはり共生だと思っています。得体の知れない触れられない存在ではなく、ましてや敵でもなく、私たちは朝鮮人そのままで、日本の方々とともに助け合える隣人のような存在になりたい。だから、私も絵を描く時、一つに融合するのではなく、個別に認識できるような画面にしたいと思っています。そして、存在というのを強調するためにも、どんどんキャンバスから乖離させていきたい。

もう一つの転写の作品。こちらは作品が少ないです。日々の生活、日常など を大枠のテーマにしています。日々の生活の中で、表現する、絵を描くということ、発言する、言葉を集めるとかのスピードと、実際にすぎていく日々のスピードが合わなくて。そういう日常に気づいたときに、そういうものを可視化して、自分が人間としてちゃんと存在するためには日々どう生きることができるか、もしくは記録的に転写して重ねてみることによって日々どう生きてきたのかを見てみたいなという思いから、こういう作品を描き始めました。ループする毎日って無意味な気もするんですけど、そういうところに愛おしさを感じます。意味のないものとか、あってもしょうがないものとか。あと、言葉に対する愛。ここに書いてある言葉は全て借り物ですが、その時その言葉に出会い、それを集めたというところに自分が出現しているような気がします。でもあまりに個人的すぎる作品かなと思っています。それを少し自分から広げて考えてみた作品が「loop」という作品です。ループと一過性。こういう方法を選んだのは、できるだけ何かの二つの間を行ったり来たりしたいと思ったからです。

これを自分なりに今までも進めてきて、これからも進めて行こうと思っています。

4.

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第48回在日朝鮮学生美術展ポスター(2019)

次は、朝鮮学校の生徒たちはどんな表現かをご紹介したいと思います。朝鮮学校の美術がぎゅっと詰まったような展覧会がありまして、それがこれです。今年度で4 8回を迎えます。朝鮮学校の美術の先生方が中心となって運営されていて、朝鮮学校に通うほとんど全ての子ども達がここに参加します。1年通して子どもから学んだことと作品を持って、先生方はディスカッションを繰り返します。そしてこの展覧会を作り上げて、ここで学んだことをまた子ども達に持ち帰る。これが全てではもちろんないですが、そういうサイクルがあります。ここでは多様性を重視しています。なので明確な評価基準を持たないというところに特徴があります。毎年のように変化の可能性を持っています。もちろん意図しないところでまとまってしまったり、定義付けがなされる場合もありますが、極力それを忘れて、新しく子どもの表現に挑む姿勢。根底には愛情があります。この多様性とそれを支える愛情というのが、この展覧会の軸になっています。まずは小学生の表現から見ていただきたいです。

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《きれいな色》第48回在日朝鮮学生美術展 初1 優秀賞受賞作品

すごく自由な表現だと思います。評価をする時にも子どもが子ども自身でいて、いかに自由か、というところが大切な部分です。そういう評価、自分にはない着眼点ももちろんあって、それらを学んだ先生が、自分が授業する時にいかに子どもを尊重することができるか、それによってこの表現が生まれています。

私が見た子どもの表現、授業の中でどう生まれたのかを一つの作品から見てみます。

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《天使のおしろ》第47回在日朝鮮学生美術展 初2 優秀賞受賞作品

コラージュ版画の版の方を作品にしたものです。この作品のプロセスを少し説明しますと、まず、この子のクラスは3人しかいません。どうしてもそのくらい少人数になってくると、歩調を合わせるのが難しくて、時間のかかる表現を 選んだ子を待つ時間が生まれます。これを描いた子はとても早くて版をすぐに 作ってしまったので、待っている間に何度も刷りを行いました。それも同じように刷るのではなく、少しずつ版を作り替えたり、インクの色を変えたり、版に仕掛けを作ったり、すべての工程を楽しんでいました。その、基底にあったのは、物語です。この子はこれを作っている最中、ずっと私や友達にお話をしていて、それが版をするごとに展開していきました。最終的には、版一つと、刷った作品3枚ほどが出来上がったのですが、それが物語の場面を表しているようなものになり、タイトルもそれぞれ別のものをつけました。その中で彼女が一番気に入った作品がこの「天使のおしろ」です。

小学生の授業で大切にしていることは、作品にならない子ども達の表現を大切にすることです。言葉とかいろいろなものを奪わない努力。そしてそれを大事にすることによって、大人が学び変化することです。子どもの言葉によって、大人である私の知覚や認識が変わる瞬間があります。それを逃さないようにしたいと思っています。

子どもと私に有機的な循環を作ること、既存の方法論に落とし込まないこと。そして作品にならないものの輝きを見失わないこと。こういうことを大切にしながら、小学生の授業に臨んでいます。

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《心模様》第48回在日朝鮮学生美術展 中3 優秀賞受賞作品

次に中級部です。中学生はまた全然違います。のびのびとした小学生とは違って少し窮屈に感じるかもしれません。でも、中学生は本当に多感な時期で、 大人が思っているよりもたくさんの思考が巡っている。それを自由に表現する となると、こういう風になります。くらい表現や怖い表現だからといって、それを止めるのではなく、ある意味ではすごく健全な表現として評価されています。

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《緊張》第46回在日朝鮮学生美術展 中3 優秀賞受賞作品

中学生はしばしば大人をどきっとさせます。そこには大人のずるさとかを見透かす力というか、そういうもの。それに遭遇した時に丸め込むとずるい大人になってしまいます。中学生と向き合うというのは、日々自己鍛錬だなと思います。

5.

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2019学年度 九州朝鮮中高級学校 美術部部展《異端》

次に美術部についてです。
全国の朝鮮学校の美術部はまた、授業とは全然違います。美術部生は若い作家として部活動をしています。全国美術部それぞれの特色の中で、真剣にアーティストとして作品を作っています。
そして、その全国の美術部が毎年各地で美術部展を開催しています。福岡でも北九州市の旧百三十銀行ギャラリーというところで開催しています。本校ならではの表現でありながら、その年によって全く違う展示になります。

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《僕から見た地球(ホシ)》第46回在日朝鮮学生美術展 高1 特別金賞受賞作品

九州の美術部にも美術展で高く評価された学生がいるのでそれも紹介したいです。
この学生はこの作品で特別金賞を受賞しました。彼の作品は自分とみんな、世界との関わりというテーマで一貫しているように思えます。この作品は立体 作品ですが、限られた面をできるだけフルに使って、複雑な地球を表現しています。世界も、自分自身もよくわからない苦悩の中、作品をつくることを通して、理解し、繋がろうとしているかのようです。

 

最後に、私はこのトークで学生たちの良さを伝えるとともに、貪欲にもみなさんからも学びたいという気持ちです。みなさんや子どもから日々学んでもっと自分を高めていきたい。そして高まった自分で生徒の前に立ちたいです。それを見れば生徒はそれに応じた返答を必ずくれる。そういう好循環を望んでいます。それが一巡して帰ってきた時に、もしかしたら空虚だった自分自身のことがわかるかもしれない、それによって私の表現も変わるんじゃないかと思っています。そういう表現を次はいつかみなさんに見ていただけたら嬉しいと思います。
ご静聴ありがとうございました。

 

スピーカープロフィール

崔 栄梨(チェ・ヨンリ)/CHOI Yong Ri (美術家、朝鮮学校美術教師)
福岡で生まれ育ち、県内の朝鮮学校に通う。東京にある朝鮮大学校卒業後、奈良朝鮮初級学校で小学校教員として勤め始め、福岡に戻ってからは、県下3校の朝鮮学校にて美術専攻講師になり今に至る。 教師の仕事の傍ら、自身の出自からその境界性に着目し、絵画制作を行う。
https://cheyonly.com

在日朝鮮学生美術展(GAKUBI)HP ※2020年8月リニューアル https://www.gakubi1972.com