韓国

「金煥基(1913-1974)から見る植民地期から南北分断、軍事政権期の韓国朝鮮近現代絵画
――福岡アジア美術館、福岡市美術館所蔵作家との関連を交えて」
松岡とも子(総合研究大学院大学 博士後期課程)

Gate 10 Korea – Fukuoka

2020.01.18 @福岡市美術館1Fレクチャールーム

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(発表原稿:一部改訂・修正しています。韓国語テキストは発表者訳。)

 

金煥基の作品についての参考サイト・日本語版
煥基美術館 http://whankimuseum.org/jp/

韓国国立現代美術館 所蔵品検索 https://www.mmca.go.kr/jpn/collections/collectionsList.do

 

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松岡と申します。元々福岡の出身で西南大、九大と通い今は大阪におります。今日は先生方のおかげで学ぶことや心強くなることがとても多かったです。最近は韓国朝鮮関連の報道を見るたび、自分を含む日本の戦後世代の近現代史への無知に怖くなっています。子どもをここで育てて行って良いのか、歴史修正主義もどんどんひどくなっていて、ここ数年は危機感で目の前が真っ暗になるニュースがたくさんありました。そこで、自分が無知であることにいつまでもためらっておらず、力不足でも何か草の根として行動する努力をしなければと最近は思うようになっています。今日はお声かけ頂き感謝いたします。



私が研究対象にしているのは韓国の近現代画家、金煥基です。今日は福岡市美術館とアジア美術館の所蔵作家との関わりを中心に、金煥基の人生を通した近現代美術史をご紹介し、日韓交流について日本人の私が韓国美術史に取り組む上で考えていることを恥ずかしながらつけ加えたいと思っています。また、発表の形式上、今日参照させて頂いた韓国の多くの先行研究や資料について紙媒体での出典がないことを始めにお詫びいたします。

 

―はじめに 金煥基(1913-1974)とは

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始めに金煥基の略歴をご紹介します。朝鮮半島の政治変遷について左の矢印軸に簡単にまとめていますのでご覧ください。朝鮮戦争以降は彼が生きた韓国側に合わせています。金煥基は、1913年に木浦に近い全羅南道新安郡に生まれました。1933年から37年には東京留学し日本大学に在籍、アヴァンガルド洋画研究所に入ります。戦況の悪化により1937年には帰国しますが、1940年まで当時の京城から自由美術家協会に参加していました。この頃の作品が下の2点ですが、抒情的なシュールレアリズムと幾何学的抽象絵画への模索が見られます。

 

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1945年、植民地解放を迎えますが、まもなく朝鮮半島は米ソの信託統治へ移行。1948年、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立します。そのまま米ソの代理戦争とも言える朝鮮戦争が勃発、ご存知のように現在まで南北分断は続いています。金煥基は解放後、ソウル大学校の教授を務めますが、1949年に辞職。戦争勃発により釜山に避難します。1956年から59年にはパリに滞在し、その後は弘益大学校美術大学で熱心に新しい世代の輩出に取り組みました。左の梅と壺、中央の梅と壺のように、1950年代の金煥基は同世代の文学者と交流しながら朝鮮陶磁を始めとする朝鮮文化のモチーフに専念しました。

 

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そして1963年、第7回サンパウロビエンナーレに韓国が初参加したときに韓国室のコミッショナー兼出品作家を務めます。サンパウロ渡航を機に当時1回ごとの発行であったパスポートを得て、そのままニューヨークへ渡り、ソウルへは帰らず亡くなるまでを過ごしました。左がサンパウロビエンナーレの出品作で、故郷の島をテーマに、50年代よりもさらに抽象化した線による山や月を描きました。右のアジア美術館の所蔵作品は亡くなった年のもので、晩年は前面を点で覆う大型作品を晩年に残しました。

 

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そこで本日は、1.植民地期、2.解放と南北分断期、3.朝鮮戦争期、4.四月革命と軍事政権期の順に、金煥基の活動の一部をご紹介したいと思います。植民地期の美術交流については、日本でも2000年を前後して次々に大きな展覧会が開かれ、国の枠組にとらわれず日本の近代美術史の実態を再考する取り組みが行われてきました。今日は限られた時間ですが、いわゆる通史のご紹介や作品分析ではなく、ひとりの画家の人生から韓国朝鮮の美術史を振り返ります。これにより、たとえば「植民地留学生画家」という一括りや、「親日」とか「右派」「左派」「反共」といった政治変遷とともに解放後の韓国で二転三転したラベルを一旦取り外し、本人や周囲の人物の生の文章や証言を見ながら、彼らが生きた時代を考えてみたいと思います。

 

1.植民地期:東京留学、自由美術家協会

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では、駆け足でお送りします。植民地期の金煥基の活動は、東郷青児、藤田嗣治らが講師を務めたアヴァンガルド洋画研究所と日大、帰国後の自由美術家協会の参加が挙げられます。

 

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この集合写真で、アヴァンガルドで金煥基が直接関わった人物と美術館所蔵作家を見てみます。色とりどりの矢印で恐縮ですが、最後列左から、赤の矢印が金煥基本人、その右のオレンジが後でご説明します吉鎭燮、一人とんで、水色の矢印、顔が半分隠れているのが斎藤義重です。そして中列左の紫の矢印が菅野ゆいこ、離れて黄緑が桂ユキ、最前列は左から二番目、ピンクの矢印がオノサトトシノブ、そして中央が藤田嗣治です。当時の二科展の常連が集っていると言えます。

 

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また文化学院には多くの友人がおり、ともに自由美術家協会に所属しました。村井正誠宅で撮影された一番左の写真は、左から二番目が村井、右に吉鎭燮、金煥基です。中央の写真は村井が撮影したもので、左がアバンガルドからの同期であり金煥基と生涯交流した今もご存命の金秉騏です。そして早速余談なのですが、当時の金秉騏先生の恋人が文化学院の同期であった右の作品、福岡出身の船越三枝子という方でした。金秉騏先生ご自身からお話を聞いたのですが、船で越えて来たという姓の福岡の人だから、朝鮮からの渡来人じゃないかと親しみを持ったということです。結婚したかったが、植民地下、平壌一の名家であった先生の家に日本人で芸術家の彼女は合わないと悩んだとのことでした。彼女が育った場所を見に福岡にいらしたとか、多くの思い出を伺いました。この方についてもし何かご存知のことがあればまた教えて頂けたらありがたいです。

 

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さて金煥基は日本時代に関する自身の証言や著述がほとんど残っていません。東京で旧姓中学を卒業し一旦故郷に結婚しますが、親の反対を押し密航して東京に戻り、再留学を取り付けたようです。彼はアバンガルドの友人と小グループ「白蠻会」でも発表を行っていました。メンバーは左の写真にある、左から菅野結以子、そして吉鎭燮、彼は1950年に北に渡ります、そして日大の鶴見武長、金煥基の4人でした。右のように、第1回展出品作に「海峡を越えて」を出品しており、留学への決意を見せるものであったかもしれません。さて、こうした日韓作家の交流、青春の思い出は紹介されやすいものではありますが、右のような政治変遷の中を、彼らは植民地の朝鮮人留学生として生活を送っていました。

 

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「金煥基、キム・ファンキ(原文ママ)、その正しい発音を覚えたのはよほど後のことであった。……偽りということが微塵もない。友人は親愛を込めて《善人・ノッポ金》と呼んだ。
 
……ある日彼に招かれて神田の下宿を尋ねて一晩を過ごした。彼は、私の抽象的な作品について執拗に問いかけながら《今後、自分も抽象的な絵を描くのだ…》と彼は私に宣言をした。

部屋の一隅に故郷の土壌を背景とした民話的な人物のいる大きな油絵があり、それを指しながら次第に彼自身について語り続けていった。それは思いがけず繊細な感情と極めて浪漫派の反面を持っている彼を発見した。そして彼の哄笑の裏にも悲哀のアイロニーが潜んでいることを。」

斉藤義重「回想」『金煥基KIM Whanki』、東京画廊、1977年

 

この時期、金煥基は1935年の二科展にて右の作品で初入選、翌36年に「25号室の記念」で二度目の入選をしています。斎藤義重は、金煥基が背が高く穏やかでいつも大声で笑っていたことや、神田の彼の下宿に泊まったときに体中南京虫に刺されたことを述べています。そして左の文章のように、斎藤が彼の正しい名前の発音をずっと知らなかったこと、あだなが「ノッポ金」であったこと、10歳ほど年上の斎藤に抽象美術を描くと宣言したこと、そしてそのとき、右にある第22回二科展の入選作のことと思われますが、故郷を題材とした大型作品を見たことを語っています。韓服、いわゆるチマチョゴリの少女が、頭に壺を載せ、壺の中にあるヒバリの巣が多角視点で見えるように描かれています。

 

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「……彼はモンドリアンの合理主義をよく理解した実力派でもあった。ある日、背の低い小野里が背の高い金煥基を攻撃した。《お前の絵はあまりに情緒的だ》。情緒的という言葉に怒った金煥基は小野里とケンカを繰り広げた。金煥基と小野里の言争いは興味深い主題だった。具象と抽象の境界線を行き来する若い時代の知的煩悶の足跡でもあった。」

金秉騏インタビュー「背が高い金煥基は《ノッポ金》、私は《金坊》と呼ばれた」

『ハンギョレ』2017年5月18日登録、2018年3月29日修正(韓国語)
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/795206.html#csidx88217530bf67499aa3832aaf373f8aa

 

そしてこれと同時期と考えられるのが、金秉騏が語った金煥基と小野里利信のケンカの場面です。金秉騏は当時アヴァンガルドに所属し文化学院に通っていました。今もご存命で、植民地期からアメリカ移住期まで、活動の方針は異なれど金煥基とずっと交流していた画家です。金秉騏は、文章にあるように、当時既に合理主義に基づいた抽象絵画に専念していた小野里が、金煥基の絵を情緒的であると非難しケンカになったと様々な媒体で語っています。一方で私が金秉騏先生にお会いしたときには、金煥基は慶尚道出身で日本語も上手くなかったので弁が立たず、こぶしをこう握り締めて、黙ってじっと聞いていたとお話になりました。

 

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エピソードの食い違いについては、今事実を検証することはできず、どちらにも真実はあると思われます。ですが感じ取らなければならないことはあると私は思います。ひとつは植民地から多くの学生が集まっていたこの時代、同時代の若手画家同士で切磋琢磨するような相互作用があり、実際に多くの小グループが生まれていたことです。

しかし決して忘れてはならないもう一つは、それが植民地留学生という歴然とした格差や不均衡を抱えながら成立したものであったということです。例えば金煥基の日本の出身校は学籍簿に名前が残されていませんが、当時異なる教育制度上にあった植民地の学生の身分は正規の学生とならないことも多く、あやふやでした。そして様々要因はありますが、例えば彼の名前が正しく覚えられていないこと、朝鮮人学生たちが、金煥基は《ノッポ金》、若い金秉騏は《金坊》、あとは美男子で有名だった李仲燮があごが出ているからと《アゴ李》であったという日本人が朝鮮人留学生につけたあだ名の性質、金煥基がただ黙って耐えて怒鳴られていたとするならその理由は何だったか、植民地期に強いられた言葉のハンデ、ここからからだけでも様々なことが浮かんできます。



右の挿図は自由美術家協会の論客的役割を果たしていた長谷川三郎の文章「前衛美術と東洋の古典」に掲載された、高句麗古墳壁画の写真です。当時の帝国主義下の日本における言説は「植民地宗主国としての日本」を「東洋の代表」とし、アジアを語り、まとめ上げるという自負や優越感に満ちていました。比較的自由な空気を持ち、多くの留学生が入会した在野の美術団体にもあまねくこの影は差し込んでいたと言えます。



現在の日本も相変わらずそれを持ち続けてはいないでしょうか。自戒を込めて、私が現在この時期の日本における美術活動を見直す上でわきまえたい、努力したいと思っている点があります。一つ目は、植民地留学生は短期のお客ではなく、明治末から終戦まで、長く、多く、日本の近代に欠かすことのなかった人々であるということ、しかも学問の場においては“田舎から来た遠方の学生”ではなく、留学に足る家柄や経済力を持った各地の知的エリートが多く集まったということです。そのため二つ目は、植民地期に美術の専門教育を受けるため留学生が集まった日本について、近代西洋美術の起点としてその機能を語るのではなく、同時に各地の画家がそこから何を取り込み、何を取り込まなかったかを考えることで、当時の日本近代美術の特質がさらに見えるのではないかと考えています。そして三点目に、植民地期の美術交流の話は耳障りの良い一部の理解者の話だけが日本にもたらされますが、それは現地において様々な葛藤や再照明の研究を乗り越えた上での成果です。私も含め日本側がそれを扱うときは、私たちが作った当時の圧倒的な暴力と不均衡の社会の中で、膨大な大多数の人々に何をしてきたかという前提をまずはきちんと知らなければならないということです。そうした時代を生きた美術を見直すとき、大きな声で語られる資料の間に隠された、語られなかったもの、語られないもの、小さな声に何が込められているかに気づき、現在の自分がどう見るかということが常に問われているのではないかなと思っています。

 

2.解放と南北分断期:ソウル大学校教授、50年美術協会

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金煥基は、新安郡の安佐島を占める地主の跡継ぎでした。帰国後の金煥基は父の死をきっかけに故郷を引き払い、1944年に母と3人の娘、そして再婚した文筆家の金郷岸とともに当時の京城に転居します。妻は「金煥基は小作人たちに借金証文をそっくり返してしまい、地荘という遺産から自分を解放した。」と後に書いていますが、 金煥基にとって画家としての決心の出発であったとわかります。

 

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しかし帰国から10年、解放前後の動乱期の金煥基には、油彩画制作と出品はありません。ソウルに転居後、金煥基が最も親しくしたのは、画家であり美術史家、評論家で後に北に渡る金瑢俊です。金瑢俊から譲られたソウル城北洞の家に移った金煥基は、朝鮮陶磁など古美術収集に熱中し、多くの文筆家、美術家がそこに集いました。元々朝鮮の画家たちは文学者との距離が近く、美術を画業としてのみ捉えず、朝鮮の知識人として政治、文化、芸術に向き合う姿勢が見られますが、これは金煥基にも言えます。『解放文学選集』のように、金煥基の代名詞となる朝鮮陶磁など伝統文化のモチーフは、この時期に多く行われた文芸誌や書籍への作品提供をきっかけとしています。右は金瑢俊が描いた金煥基像「樹話少老人跏趺坐像」で、金煥基夫婦が生涯大切にしていたものです。

 

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「冷たい水を飲んでもすっきりしない。暑いと煙草もまずい。寝込んでいる間に蘭草は咲いたが、友人たちを呼ぶこともできず来る友もいない。下の階では家族が横になっており、私はちょうど昨日辞表を出した。」

金煥基「無題」『文藝』:158、1949年11月号(韓国語)

 

ご存知のように解放直後から米ソの信託統治が始まり、南をアメリカ軍が占領します。金煥基は分断されていく朝鮮にどのように向き合っていたのでしょうか。1946年、京城帝国大学から再編されたソウル大学校に芸術大学が新設されます。アメリカ留学していた右・写真の画家、張勃が初代学長となり、金瑢俊の声かけで金煥基が、加えて吉鎭燮ほか約10名が任命されました。しかし、アメリカ軍政主導の大学運営に反対し、大学の自治権を求めた学生・指導陣から反対運動がおこり、退学処分や投獄が起きました。金瑢俊、金煥基、吉鎭燮もすぐにこの運動に賛同し任命まもなくともに辞表を提出し、結局辞職しました。このとき解放後第一世代である尹亨根が美術学部1期生としてソウル大に入学し、授業を受けていました。彼も学生運動に参加して留置や拷問を受け、学校に行けないときに吉鎭燮の画塾に通っています。1948年8月に大韓民国が、9月に朝鮮民主主義人民共和国が成立します。雑誌『學風』は、金煥基が高麗時代の青磁象嵌、朝鮮時代の白磁満月壺、青花や青花辰砂の梅瓶などの様々な朝鮮陶磁を表紙に描いており、朝鮮の多くの学者、芸術家、文学作家が参加するものでした。創刊の辞には、南北が分断されていくことへの焦りを下敷きに、再び自律的な学問体系の構築を奪われることへの危機感が述べられています。またこちらは金煥基の手記です。辞表提出後に熱を出して寝込んだようで、喪失感漂う文章です。中に「蘭草は咲いたが、」とありますが、蘭は君子の理想像を示した朝鮮画の画題《四君子》のひとつで、長い時間を葉のままで過ごす蘭に、誇り高く不遇を耐えることを隠喩するものです。またこうしたエッセイを雑誌に発表したことは、彼の辞職が知識人たちに共感されるものだったのではないかと推測できます。

 

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「……正午の鐘が鳴る 
空に飛行機が飛んだ 目がまぶしい 
私は飛鳥 私は飛人

あれほど飛べば 38線が見えようか?

大同江の氷も解けたのに―」

金煥基「春」『文學』:137(『白民』が同号より改称)1950年5月号(韓国語)

 

北と南に政府が樹立したことで、それぞれの地で右派・左派への締め付けが強化され分断体制が強められて行きます。多くの一般市民は北か南か左か右かというよりも一族が暮らしてきた地でただ状況を見守るしかありませんでした。こうした中金煥基は、1950年1月に自身が準備委員代表の一人となり、ソウルに右派・左派の合同団体である《50年美術協会》を発足させます。金瑢俊、吉鎭燮をはじめ、朝鮮戦争の前後に北に渡った文化人たちの多くが当時最も先鋭的であり優秀な人々でしたが、金煥基は境界なく多くの人と友情関係にあり、何とか断絶されていく現状を打破しようと努力したものと思われます。


しかし協会への締め付けは次第に厳しくなり、翌2月に韓国政府の意向に沿った反共姿勢の強い大韓民国美術協会が設立されると多くの作家に圧力がかかり、最後まで残ったのは金煥基ほか数名であったようです。1950年5月に金煥基が雑誌に書いた詩「春」には、鳥になって飛べば「38線が見えようか?(平壌を流れる)大同江の氷も解けたのに…」と、分断を憂う詩を書いています。右が雑誌に掲載されたそのページですが、手前に描かれた男性はしゃがんで葉だけがのびて花を待つ蘭の鉢を眺めています。結局50年美術協会は第1回展オープン直前の6月25日に朝鮮戦争が勃発し、そのまま自然消滅となりました。そして金瑢俊や吉鎭燮のほか多くの友人を北に見送り、離別することになります。

 

3.朝鮮戦争期:釜山避難

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「……彼は1・4後退のとき最終列車に乗りソウル駅を出発した。人々は族譜、キムチ甕、ピアノ、犬、何やらかんやら、永遠にソウルと絶縁するかのように山ほどの荷物を載せて来たのに対して、彼は友人と最後の酒を酌み交わし、愛蔵していた壺を夜遅くに井戸に投げ落すなり、いくつかの書画骨董とそのうんざり身震いするような絵の具箱をかつぎ、東京留学時代に通った釜山へと、人々に次いで降り立った。」

李俊(イ・ジュン1919~)「金煥基の人間と藝術 」『文藝』:172、1953年9月号(韓国語)

 

金煥基の分断体験からは、元から判で押したような「右派」や「左派」が存在していたのではないことがわかり、友人たちが離合集散していくことへの彼の大きな喪失感を感じます。朝鮮戦争が勃発後、多くの人が南へ避難しましたが、金煥基はギリギリまで留まり続け、1951年1月にソウルが再々占領されるときに臨時首都釜山に下りました。緑の枠は、釜山在住の画家で避難期の金煥基に部屋を貸していた画家、李俊が1953年に書いた文章で、金煥基は友人と「最後の酒を」酌み交わし、留学時代に通い慣れた釜山へと降り立ったとあります。この友人が誰か明記されていませんが、わざわざ「最後の」とあると考えれば北側に去る友人であったかもしれないとも推測されます。事実はわかりませんが、当時の文化人はこうしたぼかした言葉から文脈を理解し共感していたのかもしれません。下は1951年の代表作「避難列車」です。マッチ箱にぎゅうぎゅうに人が乗り込む様子を暗い色調で示したもので、同年4月出版の国連の雑誌『KOREA』の挿絵に全く同じものがあります。本誌は全文が英文による戦争広報誌のようなものですが、この挿画の本文にはひしめきあった列車で孤児の兄弟が凍死し、男たちがむしろに包んで線路に落としたという場面が記されています。

 

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「あるとき影島(ヨンド)は画家たちの収容所の役割をしていた。春谷(=高羲東雅号)先生を筆頭に、李鍾禹、都相鳳、樹話(=金煥基雅号)、南寬、朴泳善、金應璡諸先輩方をセーヌの橋たらぬ影島橋の上で会うことができた。」

李俊(イ・ジュン1919~)「金煥基の人間と藝術 」『文藝』:172、1953年9月号(韓国語)

「その(米軍の)レーション・ボックスを切って、誰かが捨てたゴミの山から拾った絵の具の残りかすを取ってきて、私(=朴栖甫)は人生で初めて油絵を描いてみたんです…。自画像を描いたのですが、その絵を見て金煥基先生が《こいつ、大家になるぞ》と称賛してくれました。そして《こいつの白の使い方は最高だ。言葉も出ないね。》とおっしゃいました。」

ケイト・リム『朴栖甫——単色画に込めた人生と芸術』:37, マロニエブックス、2003年(韓国語)

 

さて、当時の釜山は朝鮮半島全土から避難民が押し寄せ、ソウルの政府機関や学校、もちろん美術人も集中していました。李俊宅があった影島には当時多くの画家が集まり、戦火の危険はないまでも衣食住に窮する焦燥の日々を暮らしていました。金煥基は海軍従軍画家団に形ばかりの席を得て配給を受け取り、喫茶店・茶房で開く団体展に小品を描きつつ、弘益大学校の避難校で教鞭を取ります。右は金煥基が描いた留学時代からの知己、李仲燮です。ここに来たのが、戦争中に父親を失い家族とともに釜山に避難してきた朴栖甫です。朴栖甫は元々東洋画専攻でしたが、指導教授が釜山に来ず、西洋画に移ります。彼の回想には、当時貧しくて全く画材を手に入れることができず、毎日米軍のゴミ捨て場に通いレーションボックスをキャンバスにして初めて油彩画を描き、金煥基に褒められたことが語られています。また休戦後、ソウル大学の反対運動に参加し復学を赦されなかった尹亨根が、金煥基宅を訪ね弘益大に編入しています。このときの出会いで尹は金煥基の長女と結婚しています。

 

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「こんなこともありました。誰かが、李仲燮が描いた子どもたちの絵を見て《共産主義の絵みたいだ》と思わず一言言ったんです。それで李仲燮は一晩中眠れないほど心配して、その翌朝派出所に行き《私は共産主義者ではありません》と言った。聞いてた巡査は呆れて《いいから行け》と追い払いました。」

白榮洙(ペク・ヨンス/1922-2018)「新写実派同人、白榮洙画伯」
KBSニュース、2007年11月8日入力、http://mn.kbs.co.kr/news/view.do?ncd=1456321(韓国語)

「ピカソ氏よ!……銃を向けたロボット兵士の一団と裸の婦女子の一団が、何を、また誰を意味するのか十分に推測することができます。……おそらくコミュニストの公式ではそのように見るのが妥当でしょう。しかし……韓国での虐殺は「朝鮮の虐殺」とは正反対の虐殺から始まったことを指摘しないわけにはいきません……」

金秉騏「ピカソとの決別」『文學と藝術』1954年4月号(韓国語)

 

また朝鮮戦争期は、反共政策の強化の中で多くの人々が「アカ」と呼ばれ密告や逮捕を恐れて暮らしていました。当時の小説にもよく出る場面ですが、特に共和国内に故郷を持ち、戦争によって南に下りてきた人々への監視の目は厳しく、より強いふるまいで北との関係がないことを証明しなければならない事態にありました。例えば李仲燮は、「共産主義の絵みたいだ」と人に言われただけで眠れないほど心配し派出所に弁明に行っています。そして当時、米軍関係者から回ってくる雑誌『タイム』の文化欄は美術家たちの貴重な情報源でした。この頃共産党に入党していたピカソによって描かれた、米軍・国連軍を暗示し批判した作品「朝鮮の虐殺」が掲載されます。これについて金秉騏は、釜山の茶房に美術家の友人や記者を招いて、ピカソへの批判文を読み上げ、それを破り捨てるという抗議活動を行っています。金秉騏は1954年に越南した作家仲間と雑誌『文學と藝術』を創刊しますが、その創刊号にもこの文章を再び掲載しました。朝鮮の画家としての戦争への抗議と、戦時下の経験から来る共産主義への嫌悪感、そしてそれを人前で強く抗議することが、北から下りてきた自身と家族親戚を守る術であったという様々な背景が垣間見られるのではないかと思われます。

 

4.四月革命と軍事政権期:新世代の登場と国際展参加

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さて、金煥基ら最後の日本留学世代の画家たちは、解放後の韓国で大学や国展など美術の制度作りを担い、韓国画壇を牽引してきたと言えます。1953年の休戦協定後、金煥基は1956年から59年までパリに滞在しますが、成果が出ず帰国します。その後は弘益大学校の教授、学長として自らカリキュラムを作成するなど熱心に教育指導に取り組んでいました。その1960年前後には国内の大学で教育を受けた第一世代の画家たちが次々に国際舞台で活躍し始めます。

 

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(韓)「(パリから)既に帰ってきた人として金興洙、権玉縁、金煥基、朴泳善、張斗建、金鍾夏諸氏がいますが、彼らが残した業績のようなものとは?」
(朴)「旧態です。言及するほどのものはありません。我が国の画壇は失速状態にすでに陥っていますが……純粋な自己の独白や経験を告白する境地に至るものがありません。

自分からではなく、様式に縛られ絵を作っています。言わば、絵を描くために絵を描くという…生命力のない厚化粧の絵みたいなものを描いています。抽象は少しも新しいものではないのに、抽象をやるという理由で抽象をやっています。」

(対談)朴栖甫《アンフォルメルは砲火状態》『京郷新聞』1961年12月3日(韓国語)

 

その契機のひとつが1960年の四月革命にありました。これは若い世代の学生らが中心となり李承晩政権を倒したもので、こうした既存の価値を疑い権威主義を断罪する熱気の中で出てきたのが反アカデミズム、欧米志向の朴栖甫らでした。1961年の京郷新聞上の対談記事には、朴栖甫がパリ帰りの金煥基らを「旧態」と呼び、彼らが韓国現代美術史に残したものはない、アンフォルメルのように純粋な自己の独白といったものがなく、形式に縛られて形骸化し、抽象絵画を書くという理由のためだけに抽象絵画を書いていると述べています。

 

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四月革命後まもなく始まった朴正煕による軍事政権は、国民国家体制の強化をめざし、文化政策においても民族美術の樹立と国際化を強力に推進しました。渡仏した中堅画家たちがふるわなかった中で、若手世代はパリから全世界へ広がったアンフォルメル美術の波にのり、海外に活動の場を広げていきました。韓国的な抽象絵画によって国際舞台で評価を受ける若い画家たちは、軍事政権にとって文化政策を体現する格好の存在であり、時代の寵児となりました。そうした中で金煥基は、韓国が初参加するサンパウロビエンナーレの出品作家兼韓国室コミッショナーを務めます。また金煥基は同年開催のパリ・ビエンナーレの作家選定委員も務め、金昌烈が出品作家の一人となり、若手世代と交流を続けました。

 

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最後が駆け足になりすみません。学内外と画壇の政治に疲れ、制作に煮詰まった金煥基はニューヨークに移住します。しかしナムジュンパイクも活躍し始めた60~70年代のアメリカ現代美術の波には興味が持てず、苦しみながら辿りついたのがコットンのキャンバスを平置きし、点を打ち続けるスタイルでした。これは韓国国内で賞賛されました。あじ美所蔵の作品は没年のもので、彼の日記に#330として記載され、「4月4日#330夕方までに終わらせ」とメモされたものです。その7月、椎間板ヘルニアの手術のため入院し、脳出血で急死しました。渡米直後には朴栖甫との共著で中学の美術教科書も出版され、最後まで韓国の若い世代の美術教育に熱心だったと言えるでしょう。パリ、ニューヨークのコンテンポラリーの世界でスポットが当たることのなかった彼ですが、植民地期・解放・分断という朝鮮文化の危機の時代を背負っていた金煥基にとっては、国内における朝鮮文化の再構築することこそが最後まで彼の制作の原動力であったということを意味するのかもしれません。

 

―おわりに

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以上、早足になりましたが金煥基の生涯を通して韓国近現代美術の流れを政治変遷とともにご紹介させて頂きました。まず植民地期の活動については、日本の植民統治下における美術交流を、今の日本の人間が歴史を踏まえどう見なければならないかという自戒とともにまとめました。次に、南北分断から軍事政権までについて見ていきました。為政者の変化とともに「親日」「右派左派」「アカデミック」といったレッテルが二転三転しながら強い力を持ち動いた時代であり、それによってこの時代を生きた美術家たちは時代ごとに発言を調整したり、口をつぐんできたと言えます。そこで越北画家との関係や、反共政策への画家の反応を紹介し、枠組を取り外した人間関係、語られた行間にある語られないものについて考えました。



本日の発表で植民地期の例として出しました作家や個別の出来事について私が申し上げたかったのは、個人への批判というのではなく、韓国朝鮮の美術やその交流を語るにあたり、日本側がいかにそこに横たわる社会的歴史的な文脈に無頓着のままでいるか、当時だけでなく現在までずっと同じことを繰り返してはいないかということです。これは日本人である私自身の課題として、常に自問自答しながら学んでいきたいと考えております。

 

スピーカープロフィール

松岡とも子/MATSUOKA Tomoko(総合研究大学院大学博士後期課程)
1979年福岡生まれ。大阪市在住。九州大学大学院修士課程修了。総合研究大学院大学人文科学研究科地域文化学専攻(国立民族学博物館内)博士後期課程。韓国近現代美術史研究。