研究者

ベトナム近代美術研究発表
桒原ふみ(九州大学大学院修士)

Gate 09 Hanoi

2018.02.09 @art space tetra

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はじめまして。九州大学大学院修士課程で美術史を学んでおります桒原ふみと申します。本日はこのような素敵なイベントでお話しする機会をいただきとてもうれしく思っております。ありがとうございます。
私はベトナムの国民的画家と言われているブイ・シュアン・ファイ(Bùi Xuân Phái)を中心に、ベトナム近代美術について研究しているのですが、今回は「ブイ・シュアン・ファイとハノイ─ベトナム近代美術における都市の表象」と題しまして、ファイの代名詞的な作品であるハノイの旧市街を描いた「ハノイの通り」シリーズを軸としながら、ベトナム近代以降の美術とそこで表されるハノイという都市について考えていきたいと思います。
最後にハノイにあるファイと関係の深い場所や発表で紹介するアーティストに関係するアートスペースなども少しご紹介しますので、ハノイの街を一緒に巡るような気持ちで聞いていただけたらうれしいです。それではよろしくお願いいたします。

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ハノイ旧市街の様子(2017年7月筆者撮影)

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早速ですが「ハノイ」という街の名を聞いたとき、思い浮かべるのはどんな光景でしょうか。
これは私が以前調査に行ったときに撮ったハノイの旧市街の写真なのですが、複雑に絡み合うように交差する電線やその下に軒を連ねる小さな商店やカフェやホテルがひしめき合う裏通り、ひっきりなしに行き交う大量のバイクなど、ちょうどこの写真のような街並みが典型的なイメージとして思い浮かぶのではないでしょうか。
そしてハノイの街を描いたアーティストという時、パリの街を描いたユトリロのようにすぐに結び付けられるのが、今日ご紹介するブイ・シュアン・ファイであり、彼がハノイの街を描いた作品群、通称《ハノイの通り》シリーズです。

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<1>ブイ・シュアン・ファイ《ハン・バック通り》1963年、サイズ不明、キャンバスに油彩、個人蔵
【図版引用元:Bui Thanh Phuong and Tran Hau Tuan, “Bui Xuan Phai: Life and Works”, Fine Arts Publishing House, 1998】

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ファイの《ハノイの通り》シリーズには、「フォー・ファイ(Phố Phái)」、日本語で「ファイの通り」という愛称までつけられています。ファイはこのモチーフを学生時代から晩年に至るまで継続して描きました。その中でも特に典型的な《ハノイの通り》作品としてみなされているのが、スライド左の写真(①)のようなハノイ旧市街の街並みを俯瞰した構図で捉え、太い輪郭線を用い壁のシミや汚れを大胆にとらえた筆致や、暗くどこか悲し気な色調が特徴の作品です。
右は現在のハノイでファイの絵に出てきそうな光景を探して私が撮った写真です。今はもうかなり観光地化して街並みが当時とはだいぶ変わってしまったようですが、赤茶の屋根だったり古びた壁の表情からファイが描いた当時のハノイの街の姿に思いを馳せることもできるかと思います。
ノスタルジックかつ抒情的にハノイの街を描いたファイの《ハノイの通り》シリーズが大衆的に愛されていると冒頭で述べましたが、なぜこの作品群はそこまで評価され、また、ハノイの街を描くことにどんな特別な意味が見いだされるのでしょうか。それらを考察するためにも、まずはハノイという街の歴史、そしてハノイにおいて花開いたベトナム近代美術の展開を辿っていきましょう。

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ハノイは現在のベトナム社会主義共和国の首都であり、南部のホーチミンシティ、もといサイゴンが経済の中心地とされるのに対して、政治・文化の中心地と言われています。その歴史は古く、7世紀ごろには海洋貿易によりベトナムの中心都市として栄えていたとされています。古くはタンロン、トンキンなどともいわれていましたが、1830年代頃には現在のハノイという名称が定着しました。よく中部のフエがベトナムの古都として紹介されますが、ベトナムの文化的・歴史的支柱としてはむしろハノイがその中心的な存在だと言えます。

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19世紀中ごろからフランスによる侵略が開始され、1887年にフランス領インドシナ連邦が成立すると、行政・教育・インフラがハノイに集中し、政治・文化の中心地は再びハノイに戻されます。特にアジアの文明研究を使命とする極東学院や、インドシナ大学などの教育・学術機関が設立されたことで、いわゆる植民地のエリート層が形成され、ベトナム近代美術もまた、ここハノイで幕を開けることとなります。

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インドシナ美術学校での集合写真(撮影年不明)
最前列左から4番目に座る人物がヴィクトール・タルデュー

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ベトナム近代美術幕開けの場とされているのが、フランス人画家ヴィクトール・タルデュ―(Victor Tardieu)を校長として、1925年にハノイに開校したインドシナ美術学校(l’École des Beaux-Arts d’Indochine)です。
設立のきっかけは、タルデュ―がフランスのサロンに設置されたインドシナ賞を1923年に受賞したことでした。これはインドシナ派遣奨学金のようなもので、これによりタルデューはインドシナを旅行する機会を得ました。
そこでベトナムの文化的状況を目にしたタルデューは、フランスの植民地化によってベトナムの伝統的な美術が安易な西洋美術の模倣や粗悪な工業製品に出している状況に危機感を覚え、「フランスの優れた思想と方法との感化によって現地の美術家の養成を図る」ことを目的とした美術学校の設立へと奔走し始めたのでした。
これは美術学校の集合写真で、左から四番目がタルデューです。当時このような校舎が使われていたようです。

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インドシナ美術学校は素描絵画彫塑科と建築科の二科から構成され、カリキュラムはパリの美術学校が参考にされています。
実技はインドシナ賞受賞者のフランス人教師陣が中心となって担当し、美術史やフランス語の座学も行われました。
学校の功績としては、彫刻よりも絵画の方が高く評価されています。特に、インドシナ美術学校の教育方針の要として目指された「伝統芸術の延長の中での現代的な発展の実現」にあたって、伝統の再創造とでも呼ぶべき「漆絵」と「絹絵」という二つの芸術ジャンルが作り出されました。
漆絵では、特にグエン・ザー・チ―(Nguyễn Gia Trí)が技法材料の研究にも取り組み、色鮮やかで華やかな画面を作り上げ、従来工芸分野であった漆を一つの絵画様式としての地位に押し上げました<2>。
絹絵においては、グエン・ファン・チャン(Nguyễn Phan Chánh)が中国絵画を参照しつつ、落ち着いた茶褐色系の色調と絵具をしみこませる独特の技法を確立し、ベトナムの農村の素朴な光景を描きました<3>。
この漆絵と絹絵は、油彩画<4>に並んで、現在までベトナムにおける絵画美術の一ジャンルとして定着していますが、ベトナム近代美術において特徴的なのは、これら油彩画・絹絵・漆絵のうち、一つに専門を絞るのではなく、複数の絵画ジャンルで制作を行うことが一般的であるという点です。

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ここでもう少しインドシナ美術学校で制作された作品を観てみましょう。
インドシナ美術学校で多く制作された中心的主題の一つは、このような甘美な女性像です。アリクス・エーメ(Alix Aymé)はフランス人の女性画家で、主に漆の技法改良に取り組み、漆絵でこのように優美な女性像を多く表現しました<5>。一方、ベトナム人生徒たちの作品を観てみると、真ん中のレ・フォー(Lê Phổ)のように、インドシナの女性像を、オリエンタリズムを感じさせる画風で、官能的でエキゾチックに描いた作品<6>がある一方で、右のルオン・シュアン・ニー(Lương Xuân Nhị)の作品に描かれているような女性像<7>には、異なる表現を見出すことができます。
当時アオザイを着た女性はモダンガールの象徴であり、このような作品において、アオザイを着た女性像という主題は、エキゾチックな女性像ではなく、むしろ都会的なモダンガール、すなわちベトナムの近代性ないし近代的な美術家としてのアイデンティティが投影された存在として表されているという点が、先行研究の中で指摘されています。

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また、もう一つの中心的主題は、このようなベトナムの田舎の素朴で美しい田園風景です。
インドシナ美術学校の実技の授業においては、生徒たちは、屋外での制作も行いました。
特に絵画科の指導を担当したジョセフ・アンガンベルティ(Joseph Inguimberty)は、後印象派のスタイルでベトナムの自然風景を描きましたが<8>、生徒たちをフィールドトリップに連れ出して戸外での制作を積極的に奨励していたことがわかっています。
ト・ゴク・ヴァン(Tô Ngọc Vân)<9>、リウ・ヴァン・シン(Lưu Văn Sìn)<10>らベトナム人生徒の作品を観ても、ベトナムの美しい自然風景が明るい印象派風の表現で捉えられており、アンガンベルティの影響が顕著だったことが指摘できます。

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このように、インドシナ美術学校のベトナム人生徒たちは、近代以前のベトナムには存在しなかったフランス式の生活スタイルや美術教育に適合する中で、甘美な女性像や美しい田園風景など、フランス人教師陣が見出したベトナムの美を、自らの祖国の美として表現しました。
そこには、単なるオリエンタリズムへの便乗というよりは、より複雑な彼らの近代的な「美術家」としてのアイデンティティの模索の過程が見いだせるでしょう。

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ブイ・シュアン・ファイ(1940年撮影、当時20歳)
【図版引用元:Bui Thanh Phuong and Tran Hau Tuan, “Bui Xuan Phai: Life and Works”, Fine Arts Publishing House, 1998】

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そのようなベトナム近代美術の黎明期の直前、1920年にブイ・シュアン・ファイはハノイ近郊のキム・ホアン村で生まれました。彼の一族は代々続く伝統的な儒家の家庭で、村の中でもかなりの名家であったと言われています。
1936年16歳でインドシナ美術学校の予科、1941年21歳のときに本科の入学試験に合格し、ファイは第14期生、インドシナ美術学校のほぼ最後の世代として本格的に絵画の勉強を開始します。入学時期から考慮すると、すでにインドシナ美術学校の創立者タルデューはなくなっているため、学校では主にアンガンベルティーとト・ゴク・ヴァンの指導を受けていたと思われます。
しかし1940年以降の日本軍の進軍による政情不安により、ファイの学生生活も不安定な状態が続きました。在学中の1943年、空爆によって校舎が損壊し、インドシナ美術学校は避難を余儀なくされると、ファイは教師陣に率いられ、ソン・タイにて修学を続けますが、1945年には日本軍のクーデターによってインドシナ美術学校は閉校してしまいます。
そしてようやく1946年、ト・ゴク・ヴァンが引き継いだベトナム美術学校において、ようやくファイは卒業を迎えます。

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<11>ファイによる教師陣の似顔絵(1944年11月16日発行『インドシナ』掲載)

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インドシナ美術学校で、ファイはどのような学生生活を送ったのでしょうか。
ファイは学生時代からピカソ、ルオー、マルケ、ユトリロ、セザンヌなど、西欧のモダニズムの巨匠へ憧れていたと言われています。しかし、インドシナ美術学校のフランス教師陣は比較的保守的な指導方針であり、ファイは、学校の教育について、「古典的過ぎてつまらない。特にアンガンベルティの授業はとても退屈だった」と漏らしています。ファイにとってインドシナ美術学校は西洋美術との出会いの場となったのは間違いありませんが、必ずしも満足のいく学生生活ではなかったようです。
これはファイが描いた教師陣の似顔絵<11>で、実際の写真と並べてみると、ちょっとおもしろいくらい本当に人物の特徴をとらえるのがうまいなあと感心してしまうのですが、風刺的なその画風からは、ファイの抱いた少し馬鹿にしたようなというか斜に構えたような感情が伝わってくるようです。

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在学時に制作した作品はほとんど残っておらず、実態は不明な点が多いですが、唯一発見した二点の図版のうち、この女性の肖像画の作品<12>を観てみると、1900年から1907年くらいにかけてのピカソの肖像画<13>を少し意識しているのではないかなあという印象です。まだ全然資料を見つけられていないので、これから証拠づけていきたいところです。

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<14>ブイ・シュアン・ファイ《ヴイュー・マルシェの通り》制作年不明(1940~1943年頃か)、サイズ不明、ガッシュ

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今回特に注目したいのは、ファイの在学時のもう一方の作品<14>です。
この作品はベトナム国内の文献を見てもどこにも図版が載っていなくて言及だけされていたんですけど、去年私の指導教授が持っているこの資料に図版が載っていることが判明しました。
1940年から1945年にかけて国際文化振興会、いまの国際交流基金の前身ですね、が日本の対アジア文化戦略の一環として積極的にインドシナ連邦との美術交流を推進していて、この仏印現代美術展覧会もその流れで開催された展覧会です。その話も大変面白いんですが今回は時間の関係上お話しできず残念です。
掲載されている図版をざっと見渡すと、先ほど見たような典型的なインドシナ美術学校の作品や工芸の中で、この赤で囲っている作品、田園風景ではない都市の「街並み」を描いた作品が異色の存在のように映ります。

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この作品こそが、今のところ最初期のファイが《ハノイの通り》を描いた作品です。先ほど言及したように、まずこの作品の意義としては、インドシナ美術学校で好まれた「美しい田園風景」ではない「都市」としてのハノイが表象されていることです。
しかし実際は、学校の教師陣がハノイの旧市街の街並みを描いた作品や、漆絵の背景としてハノイの街並みが少し描かれている場合も少数ですが存在します。
しかし、「都市」そのものを主役にして、かつ、マルケやユトリロなど、明らかに西洋モダニズムの画家たちを意識した画風で描かれているという点で、この作品はベトナム近代美術において新たな表現を模索した記念碑的な存在として位置付けられると考えています。

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さらにその後のファイのハノイの通りシリーズの展開を辿る前に、1945年以降のファイの人生を、その背景としてまとめておきたいと思います。
先述したように、インドシナ美術学校が閉校したのち、美術家たちはハノイを去り、山間地へ逃れることとなりました。続けてインドシナ戦争が勃発すると、美術家たちはそこに留まりレジスタンスとして活動を始め、ファイもまたその一員となりました。この時期の活動の実態はよくわかっていないですが、共産党の新聞発行や戦闘を記録するフィールドトリップが主な任務であり、自由な芸術創造はよしとされなかったことから、ファイもやはりかなりの制約のもと制作を行ったと推測されます。
1954年にインドシナ戦争が終結すると、1956年には、ファイはベトナム高等美術学校にて教職に就きました。この時期のファイは、教職による安定した収入も得て、自宅において比較的充実した環境のもと制作を行うことができたようです。

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しかし、1956年に起きたニャンヴァン・ザイファム事件に参加したことで、ファイの人生は一変します。
この事件は、知識人や芸術家たちが、ベトナム共産党に対して芸術創造の自由の拡大を求めて起こした運動であり、ソ連のフルシチョフによるスターリン批判や、中国の百花斉放百家争鳴など、同時期の社会主義国で起きた言論の自由を推進する運動に感化されたものです。彼らによって、1956年に雑誌「ザイ・ファム(Giai Phẩm)」と批評誌「ニャン・ヴァン(Nhân Văn)」が創刊され、ベトナム共産党による芸術への抑圧を批判し、ベトナムの将来のためにも「芸術のための芸術」を許容することを求める言説が掲載されました。
ファイはその中で、フン・クンによる小説「チン首長の古い馬」 の挿絵<15>を担当しました。この挿絵では、作家の頭上に共産党のポリシーが書かれた帽子がうず高く積みあげられ、共産党による芸術創造への圧力が示唆されています。
この描写が、共産党によって「反動的」と判断され、ファイは美術学校からの自主退職を求められるととともに、自身の作品の公的な場所での展示を禁じられることとなります。
ファイは、共産党の公的な美術活動から除外され、孤独と貧困に苦しみながらも、自らの芸術を貫き、カフェや互いの自宅に集って芸術家仲間と交流を深め、次第にアンダーグラウンドな芸術家コミュニティを築き上げていきました。1960年代のハノイの通りシリーズは、このような背景のもと制作されることとなります。

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<16>マイ・ヴァン・ヒエン《出会い》1954年、57.5×93、紙にガッシュ、ベトナム国立美術館所蔵

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ちなみに1950年代に、共産党から高く評価された、いわば公的に正しいとされた作品<16>を観てみると、山岳民族との融和や明るく頼もしい労働者・兵士・農民の姿など、いわゆる社会主義リアリズムの基準に即したものであることがわかります。
共産党書記長チュオン・チンによって強化された「社会主義リアリズム」には、明確な造形的・様式的統一性があったわけではなく、この語を安易に用いることには注意が必要ですが、ともかくファイの「ハノイの通り」のように都市空間が主役として描かれることは管見の限りほとんど稀で、描かれる場合があっても右の作品<17>ように、戦争の勝利と関係する文脈であるようです。

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<18>ブイ・シュアン・ファイ《ハンティエック通り》1952年、サイズ不明、キャンバスに油彩、個人蔵
【図版引用元:Bui Thanh Phuong and Tran Hau Tuan, “Bui Xuan Phai: Life and Works”, Fine Arts Publishing House, 1998】

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それでは、いよいよファイが《ハノイの通り》シリーズをどのように成熟させていったのか見ていきましょう。
左は先ほどお見せした1943年のもっとも初期の作品、右が1950年代に制作された中で唯一確認できる作例<18>です。記録によると、ファイの自宅は旧市街の西側中央に位置しており、ファイは自転車で旧市街のあちこちへ出かけて、気に入った場所をスケッチし、自宅に戻って、油彩画またはガッシュを制作したようです。
小さな建物が立ち並ぶ旧市街を、各建築の特徴を注意深くとらえ、また絵の具のぼかしやしみをタッチとしていかし、表現としてはかなりユトリロに近しいものを感じた1943年の作品から、1952年の《ハンティエック通り》へ目を移すと、輪郭線がより太くなり、建物や通りを行きかう人々をシンプルな形態で捉え、画面全体の構成は調和のとれたものでありながら、子供の絵のような素朴な表現で描かれており、明らかにファイの画風に変化が訪れていることがわかります。

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そしてニャンヴァン・ザイファム事件による苦難を経て、1960年代の作例<19>、<20>を観ると、曇天の下、人通りのない閑散とした旧市街の街並みが、太い輪郭線や極度に単純化された形態によって、灰色や茶系を中心とした抑制された暗い色調で描かれていることがわかります。
この画風、そしてそれによって画面全体に生まれた寂し気で抒情的な表情こそ、ファイが1960年代に辿り着いた独自の表現であり、いささかロマンティックな視点にはなりますが、ファイの人生の悲哀とわびしさという内面が吐露されているとも考えられます。
実際、この時期のハノイは戦時下で人々も貧しく、この描写は、ファイの芸術表現として理想化されていますが、ある程度当時のハノイの雰囲気を表すものだったのではと考えています。先ほど見たような勝利の夜のハノイとは違う、公的な美術活動においては決して描かれなかったハノイの姿がここには表現されているのです。

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ファイにとって《ハノイの通り》はどのような存在だったのでしょうか。ファイの日記からその考えの一端を伺うことができます。

  1969年の日記(発表者訳)
「ハノイには多様な美があり、その一つ一つを称賛する人がいる。
新しい美も、古い美もある。例えばベトナムの昔ながらの家屋だ。
昔ながらの通り、昔ながらの家々は絵画に美しく入り込む。
それらのリズムは(現在の)高層の、型にはまり切った家々のように単調ではない。
それらは高低や大小も様々で、潰れたようなものや突き出たようなものもあり、実に多様だ。
それらは画家にとって構成やレイアウトの上で大きな助けとなる。
色彩においては、経年変化したものが良い。壁の斑点は汚らしいか?いや、そうではない。
壁の染みを発見し、それらを見ることを知る者にとっては美しい。
刻み込まれた時間が芸術家の想像と結びつき、予想しなかった美しさを生み出すだろう。」

Bui Thanh Phuong and Tran Hau Tuan, “Bui Xuan Phai: Life and Works”より

時間の関係上、全文は読み上げられませんがハノイ旧市街の建物独特の高低や大小のリズム、そして壁の斑点なども多様な美と捉え、《ハノイの通り》を表現の幅を広げる魅力的かつ実験的なモチーフとして愛着を持っていたことが窺えます。

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先ほどご紹介した作例以外にも、ファイは《ハノイの通り》シリーズにおいて、例えばこのように屋根のうえから見下ろすような視点から描くなど構図を模索したり<21>、緊迫した戦場と化した街の姿を描いたり<22>、女性のヌード、これは当時厳しく規制されていたモチーフですが、と組み合わせて夢幻的な表現を試みる<23>など、様々なヴァリエーションに挑戦していたことがわかります。

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長らく苦難を味わっていたファイですが、1975年、ベトナム戦争が終結したことによって、一種の恩赦のような形で、ファイへの制裁は徐々に緩んでいきました。
1976年には、ベトナム国立美術館によって、ファイの作品が初めて買い上げられました。その後も《ダ川》<24>国美術賞を受賞するなど、ファイへの支援と評価はどんどん高まり、そしてついに1984年、ベトナム美術協会の承認を受け、生涯で唯一の個展を開催します。展覧会にはファイを長年支えてきた芸術家仲間など多くの友人が訪れ、ファイを温かく祝福しました。
ファイはこうして疎外されたアンダーグラウンドな存在から、ベトナム近代美術の公的な「英雄」へと位置付けられるようになっていきました。

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ファイが1975年以降評価を高めていった背景には、戦争が終結したのち、もはや社会主義リアリズムの求心力を保つことが不可能になっていたという、ベトナムの美術界の状況がありました。
しかしながら、すぐにすべての表現が許容されるわけではなく、ファイが評価された要因として、ハノイの通りなどの主題を祖国愛の発露として見出されたことを指摘することができます。
1984年の個展の序文には、「ブイ・シュアン・ファイは著名かつ大衆に友好的で、芸術を愛し、多くの作品を創造し、独自の世界をつくりあげてきた」とされ、その作品として、ハノイの旧市街、次にベトナムの伝統的な民衆歌劇であるチェオの舞台が真っ先に挙げられています。この記述から、ファイが大衆に友好的、ハノイの街すなわち祖国を愛した画家として意図的に価値づけられていることがわかります。
さらにもう一つの要因として1980年代後半からの戦争の悲しみ、表現の許容を挙げることができます。
バオ・ニン(Bảo Ninh)の「戦争の悲しみ」という小説を聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれないのですが、ベトナム戦争の悲しみや心情をかなり露骨に吐露した小説で、これが1991年にベトナム国内で出版されます。また絵画の分野では、チャン・チュン・ティン(Trần Trung Tín)という作家もまた、明らかに戦争の悲惨な面を描いていて<25>、彼もファイと同じく長らく公的な場で展示することができなかったんですけれども、89年に展示が許可されて、そのあとはベトナムのアートシーンに積極的に躍り出ることになります。
そういった戦争の悲しみとファイの表現した悲しいハノイの通りが結びついて、ファイの表現が許容されるようになったことが考えられます。

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<26>ブイ・シュアン・ファイ《ファットロク寺院》1984年、58.5×78.5、キャンバスに油彩、ベトナム国立美術館所蔵

ちなみに75年以降のファイの《ハノイの通り》シリーズ<26>、<27>、<28>を見ていくと露骨に人生が上昇していく様子が見てとれるというか、色彩も明るくなって、正直作品としてはつまらなくなったなぁと思うのですが、その後も積極的に制作は続けていきました。
さらに、ファイ亡き後、ハノイという街のモチーフは、引き続きベトナムのアートシーンにおいて積極的に表現されるようになりました。そこにはもはやハノイの悲しき姿はなく、むしろファイが晩年に描いたような美しいハノイの街がありました。
この二人の作家(ファム・ルアン(Phạm Luận)<29>、ル・タイン・ソン(Lê Thanh Sơn)<30>はどちらもファイをお気に入りの作家に挙げていて、90年代以降もファイがいかに美術界で尊敬されていたかが窺えます。
さらにこれはちょっとこじつけに近いんですけど、ファイには実は贋作がたくさんありまして、真ん中はドライフルーツのパッケージなんですが、若干ファイのような感じもありますし、ハノイの街にはこういったアートギャラリーがたくさんあって、そこに明るいハノイの街を描いた絵をたくさん見ることができます。こういったイメージが定着していたことも、ある意味一つの系譜として指摘できると思います。
また、コンテンポラリーアートの分野においても、ハノイというモチーフは表象されていきました。しかし、そこでは明るいハノイというよりは、急速な都市化・観光地化が進み、近代と現代のひずみとしてハノイですね。左の作家(Nguyễn Thế Sơn)はバイクが盛んに行き交って排気ガスで汚れているようなハノイの街並みを描いていたりとか<31>、右(Vương Văn Thạo)は「生きた化石」<32>と題しまして、時が止まったようなハノイの街をある意味少し皮肉を添えて表現した作品も見受けられます。
さらに海外移住したアーティストによる故郷への眼差し、変わり続けるハノイの街の記録としての作品も多く制作されています。このグエン・チン・ティ(Nguyễn Trinh Thi)は福岡アジア美術トリエンナーレ2014にも出品しているんですけど、ハノイに今は拠点を置いていて、こういった変わり続けるハノイの街を捉えたような作品<33>も制作しています。
こういったハノイの街を主題にした展覧会としては2012年のゲーテ・インスティチュート、ハノイで開催されたハノイ・シティ・イン・アートというのがおそらく唯一の例として挙げられます。ここでは今紹介した作品も含まれているんですけど、近代から現代までのベトナム美術におけるハノイ表象を取り上げていまして、実際にベトナムで美術展覧会をするのは政府の許可がないとできないんですね。海外の国際機関だったらある意味批判的なコンテンポラリーアートと近代の美術作品を組み合わせて展示できるという状況下で重要な存在になっています。

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『ハノイ:芸術のなかの街』展図録(原題“Hanoi : A City in Art”、2010年、ゲーテインスティテュート・ハノイ)

最後に

最後に駆け足になりますが、ハノイの街でファイと関係が深い場所をご紹介します。
左はカフェ・ラムで、ファイはお金がなかったので、ここのオーナーに絵を渡してお金をもらって暮らしていて、ファイの絵が本当は所蔵されているはずなんですが、今はカラーコピーの紙が虚しく壁に下がっているだけで、しかしまだ当時の雰囲気を感じられる場所だと思います。

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カフェ・ラム(Café Lam)(2017年7月筆者撮影)

右はファイが生前よく行っていたサロン・ナターシャというベトナム初のアーティスト・イニシアティブ・スペースです。このナタリアさんはすごく優しくて、初めて調査に行った時にいろいろベトナム美術のことを教えてくれました。
さらにコンテンポラリーアートの場合でいえば、このニャサン・スタジオというのがハノイで一番最初のオルタナティブスペースというか、チュオン・タンとかチャン・ルオンなどベトナムのコンテンポラリーアートの重鎮たちが巣立って行った場所です。
さっき作品をご紹介した、グエン・チン・ティもこのドック・ラボというメディアセンターがゲーテ・インスティチュートの2階にあるんですけど、そこのディレクターで実験的な映像制作のワークショップとかも行っていて、ハノイのアートシーンにおいて重要な場所です。
駆け足になってしまったんですけど、ファイの《ハノイの通り》シリーズから始まり、ファイの作品に表されたハノイという街が、現在のコンテンポラリーアートにいたるまで、ベトナム美術における重要なモチーフとしていかに表象されてきたかということを辿ってきました。
まだ、駆け出しの学生でまだまだ未熟なところがあるんですけど、これから何か発展したことがあればまた皆様にお話できたらと思いますので、これからも頑張ります。ご静聴ありがとうございました。

質疑応答

Q:52年くらいのお金がない頃にキャンバスと油彩で作っているんですが、お金はカフェからもらってたんですか?

桒原:カフェの場合もあるし、ドゥック・ミンという有名なコレクターがいて、その人がファイに画材を提供して、ファイはそのお代として絵を描いて彼にあげることで画家としてやっていくことができました。(ファイの画業を考えるうえで)重要な存在です。

発表中の作品リスト

<1>ブイ・シュアン・ファイ《ハン・バック通り》1963年、キャンバスに油彩、個人蔵
<2>グエン・ザー・チ―《ホアンキエム湖の少女たち》1939年頃、板に漆、個人蔵
<3>グエン・ファン・チャン《オーアンクァン遊び》1931年、絹に彩色、福岡アジア美術館所蔵
<4>マイ・トゥ《肘をつく若い娘》1936年、キャンバスに油彩、福岡アジア美術館所蔵
<5>アリクス・エーメ《二つの扉つき家具》制作年不明、板に漆、個人蔵
<6>レ・フォー 《母と子》1940年、絹に彩色、個人蔵
<7>ルオン・シュアン・ニー《読書する若い娘》1940年、キャンバスに油彩、福岡アジア美術館所蔵
<8>ジョセフ・アンガンベルティ《田園を歩く女性たち》制作年不明、キャンバスに油彩、個人蔵
<9>ト・ゴク・ヴァン《香河の舟》1935年、キャンバスに油彩、ベトナム国立美術館所蔵
<10>リウ・ヴァン・シン《ヴィエトバックの風景》1936年、キャンバスに油彩、ベトナム国立美術館所蔵
<11>ファイによる教師陣の似顔絵(1944年11月16日発行『インドシナ』掲載)
<12>ブイ・シュアン・ファイ《油彩習作》1943年?、キャンバスに油彩
<13>パブロ・ピカソ《ガートルード・スタインの肖像》1905-6年、キャンバスに油彩、メトロポリタン美術館所蔵
<14>ブイ・シュアン・ファイ《ヴイュー・マルシェの通り》制作年不明(1940~1943年頃か)、ガッシュ
<15>ブイ・シュアン・ファイ《『チン首長の古い馬』への挿絵》1956年、個人蔵
<16>マイ・ヴァン・ヒエン《出会い》1954年、紙にガッシュ、ベトナム国立美術館所蔵
<17>レ・タイン・ドック《勝利の夜のハノイ》1954年、紙にガッシュ、ベトナム国立美術館所蔵
<18>ブイ・シュアン・ファイ《ハンティエック通り》1952年、キャンバスに油彩、個人蔵
<19>ブイ・シュアン・ファイ《ハン・バック通り》1962年、キャンバスに油彩、個人蔵
<20>ブイ・シュアン・ファイ《ハン・バック通り》1962年、キャンバスに油彩、個人蔵
<21>ブイ・シュアン・ファイ《ハノイ旧市街》制作年不明、キャンバスに油彩、個人蔵
<22>ブイ・シュアン・ファイ《レジスタンス》1966年、キャンバスに油彩、個人蔵
<23>ブイ・シュアン・ファイ《街と女性》1963年?、ペーパーボードに油彩、個人蔵
<24>ブイ・シュアン・ファイ《ダ河》1980年、キャンバスに油彩、ベトナム国立美術館所蔵
<25>チャン・チュン・ティン《少女と鳥と銃》1972年、新聞紙に油彩、作家蔵
<26>ブイ・シュアン・ファイ《ファットロク寺院》1984年、キャンバスに油彩、ベトナム国立美術館所蔵
<27>ブイ・シュアン・ファイ《クアンチュオン門》1980年代(推定)、キャンバスに油彩、個人蔵
<28>《旧市街》1985年、板に油彩、個人蔵
<29>ファム・ルアン《ハンドー通り》1994年、紙にガッシュ、個人蔵?
<30>ル・タイン・ソン《秋の木々》1993年、紙にガッシュ、個人蔵?
<31>グエン・テ・ソン《新しい高さ》2010年、絹に着彩、個人蔵
<32>ブオン・ヴァン・タオ《生きた化石》2006年、ミクストメディア、個人蔵
<33>グエン・チン・ティ《ハノイ24》2007年、ビデオ、作家蔵?

上記作品については主として以下の書籍で図版を確認することができます。
・福岡アジア美術館『ベトナム近代絵画展』、福岡アジア美術館他、2005
・MENONVILLE, Corinne, “Vietnamese Painting From Tradition to Modernity”, Art et d’Historie, 2003
・Bảo tàng Mỹ thuật Việt Nam, ”Bảo tàng Mỹ thuật Việt Nam : Vietnam Fine Arts Museum”, 1999
・Bui Thanh Phuong and Tran Hau Tuan, “Bui Xuan Phai: Life and Works”, Fine Arts Publishing House, 1998
・Goehte Institute Hanoi, “Hanoi : A City in Art”,2010

テープ起こし 古賀昌美

スピーカープロフィール

桒原ふみ(九州大学大学院修士)
東京藝術大学芸術学科卒業。九州大学大学院修士課程在学。ベトナム近代美術を中心に研究中。時々詩作も。